- 2016.1.27の日記をgdgdと考え直す…
- 大学教養程度の数学のコンテンツを高校数学の教程まで遡りつつ考えると、乗根()がいきなり暗黙のうちに実数の連続性を前提している強烈な「天下り式」であることに気付いてから考え始めた。
- 「数の位取り記法」と「量」の区別を考える。
- は「量」と「操作」を表しており、 操作を通して「量の計算の体系」に組み込まれている。
- 「量」を「数の位取り記法」で表現することで「量」としての大きさの概算ができる。
- 「量の計算」と「位取り記法を用いた量の値の計算」を区別して考える
- 「量」を「数の位取り記法」で表現するアルゴリズムがいくつかある。
- たとえば1/3=0.333...は小学校で学習するわり算の筆算、 すなわち量としての「商」を「数の10進位取り記法」で表現するアルゴリズムを実行すると、 アルゴリズムが止まらない例になっている。
- 例えば「開平計算」や「バビロニア式アルゴリズム+わり算の筆算」を用いて、 の「10進の位取り記法」1.732...を得ることができるが、 アルゴリズムは止まらないことがこれらのアルゴリズムとは別の論理から論理的に分かるし、 アルゴリズム自体に自動停止する機構は組み込まれていない。
- 「数」と「量」を区別して考えるとき、 分数の計算ルールは「量」の計算体系。
- 「計量・計測」の分野では "quantity value" 「量の値」という表現があるよなあ。 「量」があって「真の値」を持つけれど、その値の「精度」は測定の方法によるし、 その「精度」の制限内で「測定値」を知り得るに過ぎない。 「量」と「数の位取り記法」の一つの接点である。
- 「数」あるいは「数の位取り記法」のルールとして確立された 「算法(たし算、ひき算、かけ算、わり算)」が、 「量」の計算に拡張されているということなのか?
- 離散量にしても連続量にしても量の「単位」を抱えている。
- 例えば身長1.5mならば「長さの次元を持つ量である"mという単位"の1.5倍」という意味。 だから単位とは分数で書いて計算を進めるときに、分母、分子に現れたら約分をして無次元化しないといけない量。
- 連続量の中に「数の位取り記法」に対して 記数アルゴリズムが「止まるもの」 「止まらないが『周期的』な動作になるもの」 「止まらないし『周期的』にもならないもの」 の3種類に分類される。
- の計算で では指数の桁が1個ずつ増えて収拾がつかなくなるので、 「数の位取り記法」を悪用して、指数法則が小数でも利用できると前提して、 とおいて指数を規格化するとに対応する指数は 0.3465... に収束しそう。
- この桁を増やしていく作業の極限で万能の指数が作れる。
これが万能の指数の底 の由来。(Jakob Bernoulliのアイディア)
桁を一つ増やす操作で1にどんどん近づくから、指数の底は正の数。 - これに対してに対しは実数の指数を前提とした式で、ただの天下りで、値を求めるアルゴリズムが無い。
- n乗根の「値(近似値列)」の導入で、 n乗根という実数を前提とする量のうさん臭さや、 eの定義にたどり着く教科書があってもいいのではないか?
- 指数関数はしかない。一般の底の指数関数はで定義される。
- 底の値のときだけ指数法則を使わずに級数で指数関数の値を求めることができる。
- このあたりの「値を求めるアルゴリズムの存在」が高校までの教程で不足しているのではないかと感じている部分。
- 分母の有理化(例えば)の必要性は、むかしむかし関数電卓普及以前の有効数字がせいぜい4桁程度の時代に、量の値を筆算で求めなくてはいけない場合に、「2という正確な値でわり算を実行」と「1.414という近似値で面倒なわり算の実行」の対比の中で合理的な算法であったといえるが、スプレッドシートで10桁くらいは強引に計算できる時代に意味があるだろうか?
- 数学IIIまで習った後ならば、を出発点として対数関数(とその逆関数としての指数関数)を論理的かつ関数の値を求めるアルゴリズム(の方向性)付きで導出できる:e関連の極限の式を避けて対数関数と指数関数を微分する - あらきけいすけのメモ帳
- 0.999999...は 「止まらないアルゴリズムで定義されている位取り記法された数」であり、 標準的な「量」の演算の体系では、その「量の値」は1に等しい。